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パブロ・ピカソ
Pablo Picasso(1881-1973)


 1881年 10月25日スペインのマラガに生まれる
       父:ホセ・ルイス・ブラスコ(美術教師)
       母:マリア・ピカソ・ロペス
 
 1888年 油絵を描き始める

 1891年 ラ・コルーニャに転居

 1892年 父の勤める美術学校で、正式に素描を
       習い始める 

 1895年 バルセロナ、リョジャ美術学校で学ぶ

 1895年 《初聖体拝領》制作

 1897年 マドリード、サン・フェルナンド王立
       美術アカデミー付属学校に入学するも
       同年中退する
       プラド美術館での模写 
       《科学と慈愛》全国展に入賞 

 1898年 オルタ・デ・エブロでの休養生活 

 1899年 バルセロナで若い芸術家たちと交わり
       ながら熱心に絵を描く

 1900年 カサヘマス、パリャーレスとともにパリ
       を初訪問
       その後パリとバルセロナを往復

 1901年 雑誌「若い芸術」の編集に関わる
       6月パリで初の個展
       「青の時代」の始まる(〜1904)
       パリに同行した親友カサヘマスが悲恋が
       原因で自殺した
       その悲しみによって、ピカソの「青の時代」
       は始まる
       《自画像》

 1902年 10月パリでマックス・ジャコブと共に住む
       《酒場の2人の女(酒場の娼婦達)》

 1903年 《海辺の貧しい人々》
       《セバスティアン・ジュニェル・ピダルの肖像》
       《貧者の食事》
       《盲人の食事》
       《年老いたギター弾き》
       《人生》

 1904年 洗濯船(モンマルトル)に部屋を借り、
       パリに腰を据える
       《セレスティーナ》

 1905年 「バラ色の時代」(Rose Period)始まる
       (〜1907)
       フェルナンド・オリヴィエという名前の
       女性と同棲を始めた
       少し教養のある女性で、ピカソにフランス
       語を教えたり、精神的な安定を与えてひた
       すら絵を描くようにピカソを仕向けました
       彼女と暮らすようになってから「青の時代」
       の表現は影を潜め、彼女の美しい裸像や身
       近な人々の肖像画、彼女の仲間たち、俳優
       サーカスの芸人たちを、バラ色を基調とし
       た暖かい色で描くようになった
       「バラ色の時代」の始まりです
       1906年画商ヴォラールが大量に作品を
       購入してくれたおかげで、作風の転機とな
       ったスペインのゴソルへの旅行が可能になった
       オリヴィエは、次の新しい恋人エヴァが現れ
       るまでの7年間をピカソの伴侶として過ご
       した
       《サルタンバンクの家族》


 1906年 《ガートルード・スタインの肖像》


 1907年 《アヴィニョンの娘たち》
       この《アビニヨンの娘たち》がキュビスム
       の出発点である。
       この絵をピカソはごく一部の友人にだけ見
       せたが、反応は芳しいものではなかった
       マティスは腹を立て、ブラックは「三度の
       食事が麻クズとパラフィン製になると言わ
       れたようものだ」と言い、アンドレ・ドラン
       はピカソがそのうち首を吊るのではないか
       と心配したという。

 1909年 (分析的)キュビズムの時代(立体派)
       始まる(〜1912)

 1910年 《ウーデの肖像》
       《カーンワイラーの肖像》

 1912年 モンパルナスへ移る
       「総合的キュビスム」(Synthetic Cubism)
       が始まる(〜1918)
       春頃以降、形態の分析・解体が一段落し
       揺り戻しが始まる
       この時期の特徴としてパピエコレ、文字の
       導入、シェイプトキャンバス、色彩の復活

 1913年 父 ホセ・ルイス・ブラスコ死去

 1916年 パリ郊外モンルージュに移る

 1917年 バレエ「パラード」の装置、衣装を製作
       「新古典主義の時代」始まる(〜1925)
       《安楽椅子のオルガ》

 1918年 オルガ・コクローヴァと結婚
       パリ、ラ・ボエシーに移る。

 1921年 息子パウロの誕生 

 1922年 ジャンコクトーの『アンティゴーヌ』の
       装置衣装を担当

 1924年 バレエ『メルキュール』(ディアギレフ)
       の装置、衣装を製作

 1927年 若き愛人マリーテレーズとの出会い 

 1928年 彫刻に専心する

 1930年 『ピカソ夫人像』がカーネギー賞を受賞

 1931年 『変身譚』の挿絵を制作。

 1932年 マリ・テレーズ・ヴァルテルと共同生活を
       始める

 1934年 スペインへ旅行、『闘牛』連作を描く

 1935年 マリー・テレーズとの間に長女マヤが
       生まれる

 1936年 スペイン内戦勃発(ー1939年)
       人民戦線政府の依頼によりプラド美術館長
       に就任

 1937年 銅版画《フランコの嘘と夢T、U》出版
       《ゲルニカ》とその習作45点 パリ
       万博に展示 

 1939年 ニューヨーク近代美術館で個展
       《アンティーブの夜釣り》

 1940年 占領下のパリへ帰る

 1941年 戯曲『尻尾をつかまれた欲望』を書く

 1943年 愛人フランソワーズ・ジローと出会う 

 1944年 フランス共産党入党

 1945年 ロンドン、ブリュッセルで個展

 1946年 フランソワーズ・ジローと共同生活を
       始める

 1947年 フランソワーズ・ジローとの間に
       クロードが生まれる

 1949年 フランソワーズ・ジローとの間に妹、
       パロマが生まれる 

 1951年 《朝鮮の虐殺》

 1952年 《戦争と平和》のパネルを制作

 1953年 ジャクリーヌ・ロックとの出会い 

 1955年 カンヌ−ラ・カルフォルニに住む

 1957年 ニューヨーク近代美術館「ピカソ75歳記念展」開催
       《ラス・メニーナス》連作を始める

 1958年 《イカルスの墜落》(パリ、ユネスコ本部)

 1961年 ジャクリーヌ・ロックと結婚 

 1964年 日本、カナダで回顧展

 1966年 パリ グラン・パレ、プティ・パレで回顧展

 1967年 シカゴで巨大彫刻《シカゴ・ピカソ》公開

 1968年 版画に専心半年で347点(347シリーズ)を製作

 1970年 アヴィニョン法王庁で140点の新作油絵展
       バルセロナのピカソ美術館開館。

 1971年 ピカソ90歳の誕生日を記念して、ルーブル
       美術館にて回顧展 

 1973年 4月8日死去 

 1977年 マリー・テレーズ・ヴァルテル67歳で自殺


ピカソの女性遍歴

★ジェルメーヌ・ガルガーリョ

スペインからパリへ行くことを渇望していたピカソに裕福な親友が彼の分も出してくれた。
親友はスペイン系フランス人の絵のモデル・ジェルメールに恋をする。
しかし失恋した親友はピストルでジェルメールを撃ち、自分もその場で自殺した。
ジェルメールは一命をとりとめ、ピカソは彼女と恋愛関係になる。

★フェルナンド・オリヴィエ/フェルナンド・ベルヴァレー 青の時代からバラ色の時代へ
1881-1966 85歳没

ユダヤ系フランス人で、妊娠して恋人と結婚したものの、
子供が生まれると相手は失踪してしまった。
彫刻家と再婚するが破局した。
ある日、フェルナンドがアパートに入ろうとすると、
同じアパートのピカソが子猫を抱いて立ちふさがり、子猫をひょいと渡し部屋へ誘った。
彼女はピカソにフランス語を教え、家計を支え、モデルにもなった。
彼女をモデルに『アヴィニョンの娘たち』を発表、絵が売れるようになったころ破局。

★マルセル・アンベール/エヴァ・グエ
1885-1915 30歳没

もともとエヴァはピカソの友人で彫刻家のマルクーシと同棲していた。
エヴァとの関係を知ったフェルナンドは怒って若い画家と当てつけの駆け落ちをする。
ところがピカソもマルセルを連れて駆け落ちしてしまう。
芝居好きのエヴァのおかげで、ピカソは舞台芸術の仕事も手掛けるようになる。
しかしエヴァは結核で死亡する。

★ギャビー・レスピナス

年上の人妻。
レスピナス夫妻の死後、遺品整理をしていた遺族によってピカソとの関係が発見される。
女なしでは生きていけないピカソは、マルセルの入院中からギャビーと関係していた。

★オルガ・コルオーヴァ 新古典主義の時代へ
1891-1955 64歳没

イタリア旅行で知り合ったバレリーナ。
バレリーナとしては平凡でだったが、父親はロシア帝政時代の将軍であった。
ピカソがこれまで出会ったパリの街の女たちとは違っていた。
ピカソはオルガと初めての結婚をする。

「これからは、私の顔がはっきりとわかる絵を描いてほしい」と彼女はピカソに注文した。
オルガの理想はきちんとしたブルジョワ生活を送り、社交界に出入りすることだった。
男児パウロも生まれたが、ピカソは次第に結婚生活に息苦しくなってくる。

ピカソに捨てられた後、精神病となり死ぬまで離婚に応じなかった。
また、孫がピカソの死後自殺している。

★マリー・テレーズ・ワルテル
1909-1977 68歳没

ある日ピカソはデパートの前を歩いていた17歳のマリー・テレーズの腕をつかんだ。
そして彼女に「君の絵を描きたい。私はピカソだ」と言った。
彼女はスポーツ好きで芸術にはまったく興味がなかった。
欲のない彼女とはのびのびとした生活が楽しめた。
マリー・テレーズが妊娠したため、オルガに離婚を申し入れたが彼女は承知しなかった。
その後オルガは死ぬまで離婚に応じなかった。
マリー・テレーズは女児マイアを生むが、母となった肉体にピカソは創作意欲を失った。
ピカソの死後首つり自殺した。

★ドラ・マール
1907-1997 90歳没

ピカソは写真家・画家のドラ・マールと出会う。
その才気あふれる激しい内面はピカソを刺激した。
ピカソの芸術的側面に関心を持たないマリー・テレーズと異なり、
ドラは芸術に関しても、社会や人生に関しても、
ピカソと対等に話ができる自立した女性であった。
しかし、オルガ、マリーとの四角関係の中で、ドラは精神的に不安定となっていく。
ピカソに捨てられた後は修道女となる。

★フランソワーズ・ジロー アンティーブ時代へ
1921-現在

フランソワーズは画学生だった。
彼女はピカソと生活を共にしながらも自分を失わなかった。
フランソワーズはピカソが共に暮らした女性の中で最もバランスのとれた人物であった。
男児クロードと女児パロマの二人の子供が生まれる。
パロマは後にデザイナーとなったパロマ・ピカソである。

ホホホ 生き残ったのは私だけ   傘をお持ちするピカソ

★ジャクリーヌ・ロック
1926 -1986 60歳没

この時期ピカソは陶芸に熱中していた。
その工房で働いていたジャクリーヌ・ロックと関係を持つようになった。
ジャクリーヌは離婚して娘を抱え、陶房の手伝いをしていた。


フランソワーズは二人の子供を連れてピカソの家を出た。
そして別の男性と再婚した。
フランソワーズはピカソを捨てた唯一の女性と言われる。

やっと最初の妻オルガが亡くなった。
そこでピカソはフランソワーズに復讐をした。
当時フランソワーズは二人の子供の認知を求めていたので、
ピカソはフランソワーズに「今の夫と離婚すれば入籍する」と言った。
フランソワーズは夫と離婚したが、
ピカソはフランソワーズを裏切りジャクリーヌと再婚した。
後にフランソワーズはアメリカ人科学者と再々婚した。

ジャクリーヌはピカソが亡くなるまで最後の妻だった。
ピカソの死後ピストル自殺する。

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