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ヴォルス
Wols(1913-1951)

Alfred Otto Wolfgang Schulze


 1913年 裕福なプロテスタントの家庭の息子としてベルリンに
       生まれる
       父アルフレートはワイマール共和国の高級官僚であり、
       当時の新しい絵画にも理解を示す教養人で、の息子オッ
       トーは幼時からバイオリンを習い,絵画,写真,音楽等に
       多彩な才能を示す少年であった

 1919年 父の出身地であるドレスデンに転居

 1929年 父が死去
 
 1930年 当時通っていた高校を退学処分になる
       ユダヤ系の級友を庇い過ぎたことが原因であったとされる

       高校退学後の彼は、メルセデスベンツの工場で働いたり、
       写真家のスタジオで助手を務めたりした

       フランクフルトにあったレオ・フロベニウス(民族学者、
       1873-1938)のアフリカ研究所に入り民族学と人類学を
       学んだこともあるが、数か月でここを去っている

       その後、前衛的な美術教育機関であるバウハウスにも入り
       画家パウル・クレーの指導を受けが、ここにも短期間通っ
       ただけであった

 1932年 ナチスの支配に嫌気のさしていたヴォルスはドイツを去る
       決心をし、バウハウスのラースロー・モホイ=ナジの勧め
       もあってパリに移る

       パリではマックスエルンスト、ジョアンミロ等、同時代の
       美術家とも知り合っているが、ヴォルスが本格的に絵画制
       作を始めるのはもう少し後のことである

       ヴォルスはパリで後に妻となるグレティという女性(ルー
       マニア系のフランス人)と知り合う

 1933年 グレティとともに隣国スペインへ旅立つ
       スペイン滞在中にドイツ軍へ従軍するようにとの通知を受
       けるが拒否し、政治亡命者としての道を選ぶ
       バルセロナでは危険人物として投獄されたこともある

       その後フランスに戻ったヴォルスは写真家として生計を立
       てようとした

 1937年 パリ万国博覧会では公式フォトグラファーに任命され、
       パリのレ・プレイヤード画廊で写真の個展を開催
       本名のWolfgang Shulzeを略したヴォルス(Wols)という
       名前を使い始めるのはこの時からである

 1939年 第二次大戦が勃発、ヴォルスは敵国人として捕えられ、
       収容所へ送られる
       ヴォルスが本格的に水彩画の制作を始めるのはこの頃で
       あった

 1940年 ヴォルスはフランス国籍のガールフレンドであるグレティ
       と結婚し、釈放される
       カシ(マルセーユ近郊の港町)やデュルフィ(南仏,ドロ
       ーム県)で過ごした後、終戦後に再びパリへ戻る

 1945年 ヴォルスはパリのルネ・ドルーアン画廊で個展を開催
       この頃からようやく美術家として評価されるようになる

       20世紀フランスを代表する文化人であるジャン=ポール
       サルトルはヴォルスの作品を高く評価し、ヴォルスは
       サルトルやアントナン・アルトーの作品の挿絵を担当
       することとなる

 1947年 ドルーアン画廊で第2回の個展を開催
       彼の画家としての名声は次第に高まっていったが、常に
       ラム酒の瓶を手放さなかったという彼の体はアルコール
       中毒に蝕まれており、健康は次第に悪化していった

 1951年 腐った馬肉で食中毒を起こしたことが元で死去
       38歳の若さであったが、不摂生のきわみにあった彼の
       風貌は衰え、50歳くらいにしか見えなかったという
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