ホーム > 現代美術作家 > ラウシェンバーグ >  ラウシェンバーグ略歴

ロバート ラウシェンバーグ

Robert Milton Ernest Rauschenberg
(1925-2008)


ジャスパー・ジョーンズとともにアメリカにおけるネオ
ダダの代表的な作家として活躍した。のちのポップアー
トの隆盛にも重要な役割を果たしたことでも知られる。
1925、テキサス州ポートアーサーに生まれた。
父親はドイツ系アメリカ人とチェロキー族インディアン
の混血、母親はイングランド系アメリカ人。ブルーカラー
の家庭に育ち、第二次世界大戦中の1942〜45までは海軍
に所属していた。終戦後、1947から翌年初めにかけてカ
ンザス・シティ美術学院に学ぶ。1948には一時パリに、
滞在しアカデミー・ジュリアンに通った。

1948秋にアメリカに帰国したのちは、ノースカロライナ
州のブラック・マウンテン・カレッジでジョゼフ・アルバ
ースに学んだ。ブラック・マウンテン・カレッジでは、
夏期の講師だったジョン・ケージやマース・カニンガムの
影響も受けた。ケージもラウシェンバーグの作品に影響
を受け、ラウシェンバーグの作品「ホワイト・ペインテ
ィング」は、ケージが「4分33秒」(1952)を作曲するきっ
かけの一つになった。

1949からニューヨークに住み、アート・スチューデンツ
・リーグでも学んでいる。1951頃から作品を画廊で発表
し、1954頃から「コンバイン・ペインティング」と呼ば
れる一連の作品を発表し始める。1958には親交のあった
ジャスパー・ジョーンズと同じくニューヨークの画商レ
オ・キャステリ画廊で個展を開き、やがてヨーロッパに
も出品されて人気を呼んだ。

1964、ヴェネツィア・ビエンナーレで最優秀賞を受賞し
た。同年には、カニンガムのダンス・カンパニーの美術
監督として世界ツアーに参加し、日本では草月ホールで
公開制作を行なった。世界ツアー終了後はパフォーマン
スやエンジニアとのコラボレーションに重点を移し、芸
術家とエンジニアのコラボレーション組織であるExperi
ments in Art and Technology(E.A.T.)の設立や運営に
も関わった。そのため画廊で発表する絵画作品の発表を
止めていたが、同時期に1964〜65にかけて巡回展をして
いた「ダンテの「地獄編」のためのドローイング34篇」
(「ダンテ・ドローイング」)展はヨーロッパで反響を呼
び、ラウシェンバーグのアメリカでの評価も高めた。こ
の作品はダンテの「神曲」地獄篇を題材にした内容で、
ダンテ生誕地のイタリアでも好評だった。

1964に世界各地をまわる中で、ラウシェンバーグは各地
の素材を用いて制作をするというスタイルを確立した。
1984以降には世界の芸術家と共同制作して展覧会を行う
「ラウシェンバーグ海外文化交流」(ROCI=ロッキー)を
設立し、アメリカと政治体制が異なるソヴィエト連邦や
中国など10カ国を訪問した。1992にヒロシマ賞、1993に
国民芸術勲章、1995にレオナルド・ダ・ヴィンチ世界芸術
賞を受賞した。日本では、1998に高松宮殿下記念世界文化
賞(絵画部門)を受賞したことで広く知られている。

2008年5月12日、フロリダ州キャプティバ島の自宅にて
心不全のため死去した。

ラウシェンバーグ作品に共通する特徴として、越境性が
ある。コンバイン作品では、2次元用の素材と3次元の素材
をともに使うことで、絵画や彫刻などの既存のジャンル
を越境した。制作においては、世界各地で制作をするこ
とで国家という境界を超えて活動した。また、日常と芸術
という境界を超えて両方に関わろうとした。ダンスや音
楽とのコラボレーションをカニンガムやケージと行った
点や、E.A.T.の設立にもラウシェンバーグのジャンル越
境性が表れている。

ラウシェンバーグはコンバイン作品においてマルセル・
ュシャンのレディ・メイドの概念を取り入れ、それまで
前衛芸術に取り入れられていなかったアメリカの大衆文
化を素材とした。1959当時のラウシェンバーグは、自作に
ついて「絵画は日常と芸術の両方に関わっている。どちら
も作り出すことはできない。(ぼくはその間のギャップで
行為しようとしている)」と語っている。彼の創作におい
て歯磨き粉や爪磨きなど様々な日用品が作品の重要な一
部となったことにも、そのような姿勢が反映されている
とされる。彼のコンバイン・ペインティングの典型的な作
品は、抽象表現主義風の激しい筆致で塗られたキャンバ
スにケネディ大統領やアポロ宇宙船などのイメージを貼
り付け(「バッファローII」)、あるいは画面に交通標識、古
タイヤ、鳥獣の剥製などの現実の物体を貼り付けたりし
たもの(「モノグラム」、「キャニオン』)で、しばしば2次
元の枠をはみ出している。

素材を区別せずに扱うラウシェンバーグの作風について
、1968に美術評論家のレオ・スタインバーグは「フラッド
ベッドな絵画面」と評し、ポストモダンという言葉が美
術批評で使われるきっかけとなった。

ロバート ラウシェンバーグ年譜

1925 10月22日米国テキサス州ポートアーサーに生まれる
   父親はドイツ系アメリカ人とチェロキー族インデ
   ィアンの混血
   母親はイングランド系アメリカ人
   ブルーカラーの家庭に育つ
   第二次世界大戦中の1942〜45年までは海軍に所属

1947 カンザスシティアートインスティテュートに学ぶ

1948 渡仏、アカデミー・ジュリアンに通う
   パリから帰国後ノースカロライナ州のブラックマ
   ウンテン・カレッジ、ニューヨークのアートスチ
   ューデンツ・リーグに学ぶ
   ブラック・マウンテン・カレッジでは、教師であ
   ったジョン・ケージに大きな影響を受ける

1955 「コンバイン(結合)・ペインティング」と呼ば
   れる一連の作品を発表し始める

   ラウシェンバーグは、自分の創作目的は「芸術作
   品をつくることではなく、芸術と生活の橋渡しを
   することだ」と語っており、また「芸術も生活も
   作ることはできない。我々は、その間の、定義し
   ようのない空隙で仕事をしなければならない」と
   述べている
   彼の創作において歯磨き粉や爪磨きなど様々な日
   用品が作品の重要な一部となったことにも、その
   ような創作姿勢が反映されているとされる彼の「
   コンバイン・ペインティング」の典型的な作品は
   抽象表現主義風の激しい筆致で塗られたキャンヴ
   ァスにケネディ大統領やアポロ宇宙船等のイメー
   ジを貼り付け、あるいは画面に交通標識古タイヤ
   、鳥獣の剥製等の現実の物体を貼り付けたりした
   もので、その作品はしばしば2次元の枠をはみ出し
   ている

1964 ヴェネツィア・ビエンナーレで最優秀賞を受賞し、
   世界的な名声を得る
   平和を願い、世界の芸術家と共同制作して展覧会
   を行う「ラウシェンバーグ海外文化交流」(ROCI)を設立

1985 私財を投じ、アジアや中南米など12カ国で世界
   巡回ツアーを行う(-1991)

1998 高松宮殿下記念世界文化賞(絵画部門)を受賞

2008 5月12日フロリダ州キャプティバ島の自宅で死去

主な作品
「Riding Bikes」、ベルリン、1998
「ワイト・ペインティング」、1950
(ロバート・ラウシェンバーグ財団所蔵)
「消されたデ・クーニング」、1955
(ニューヨーク近代美術館所蔵)
「ベッド」、1955(ニューヨーク近代美術館所蔵)
「カ・コーラ・プラン」、1958
(ロサンゼルス現代美術館所蔵)
「モノグラム」1955-59(ストックホルム近代美術館所蔵)
「キャニオン」、1959(ニューヨーク近代美術館所蔵)
「ダンテの「地獄編」のためのドローイング34篇」
『ダンテ・ドローイング』、1959-60
(ニューヨーク近代美術館所蔵)

ラウシェンバーグ画面に戻る