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熊谷守一(1880 - 1977)

日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられ
ている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象
絵画に接近した。
富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り
、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。
1880年4月2日、機械紡績を営む事業家で地主の父熊谷孫六
郎と母タイの三男(7人兄弟の末っ子)として岐阜県恵那
郡付知(現中津川市付知町)に生まれた。子供時代から絵を
好んだ。父親の孫六郎は学も財もない中から製糸業で成功
し、岐阜県会議員となり、1885には同議長を務め、人口不
足のため市制が布されなかった岐阜の将来のため有力者に
働きかけて市制実施運動を興し、近隣町村を合併して人口
を増やし、私財を投じるなどして市制を実現し、1889に初
代岐阜市長に就任1892には衆議院議員に選出され、岐阜の
名士となった人物。製紙工場のほか春牛社牧牛場などを経
営する孫六郎は政治や商売に忙しく、守一が3歳のときに祖
母や母から引き離して他の兄弟とともに熊谷製糸工場に隣
接する岐阜市内の邸宅に住まわせ、妾の一人を「おかあさ
ん」と呼ばせて養育させた。
同家には、孫六郎の二人の妾と大勢の異母兄弟が暮らして
いた。岐阜県尋常小学校に入学し、11歳のとき、濃尾地震で
友人を多数亡くす。12歳ころより水彩画を描きはじめ、14
歳で岐阜市尋常中学校に進学する。

17歳で上京し、芝公園内にある私立校正則尋常中学に転校
するが、絵描きになりたいことを父に告げたところ、「慶応
義塾に一学期真面目に通ったら、好きなことをしてもよい」
と言われたため、1897に慶應義塾普通科(慶應義塾普通部)
に編入し1学期間だけ通って中退する。

1898、共立美術学館入学。1899召集、徴兵検査で乙種合格
(前歯が7本抜けていたため甲種では不合格。日露戦争では
徴兵されなかった。
1900、東京美術学校に入学。同級生に青木繁、山下新太郎ら
がいる。
山梨県や東北地方を巡るスケッチ旅行をする。
1905〜1906にかけて樺太調査隊に参加しスケッチを行う。
1909自画像「蝋燭」は、闇の中から世界を見つめる若き画家
の不安を描き、第三回文展で入賞した。

1913頃、実家へ戻り林業などの日雇い労働の職につく。
この時期作品は「馬」他3点のみ。
1915再び上京。第2回二科展に「女」出展。後に軍の圧力
で二科展が解散されるまで毎年作品を出品する。
1922年42歳で18歳下の大江秀子(1898-1984)と結婚。
秀子は和歌山県日置郡南部町の生まれ。大江家は近在きっ
ての豪商で、山林地主だった。1920に遠縁の美大生、原愛
造と結婚している。原愛造との婚約時代に、熊谷守一と音楽
グループを通して知り合い、守一は秀子をモデルに「某婦人
像」を描き二科展に出品。大江秀子が24歳のときに原愛造と
離婚。守一と秀子の間に5人の子供、長男・黄、次男の陽(1925
〜28、肺炎で3歳で死亡)、長女の萬(1924〜47、肺結核で23
歳で死亡)、次女の榧は画家・日本山岳画協会会員、三女の茜
(1930〜32、病死)を設けたが、熊谷は絵が描けず貧乏が続
き妻からは何べんも『絵を描いてください』と言われた。
(中略)周りの人からもいろいろ責め立てられた」と後に
述べている。当時は日々の食事にも事欠くありさまで、次
男の陽が肺炎に罹ったときも医者にみせることができず死
なせてしまった。陽の亡骸を熊谷は絵に描いている。
「陽の死んだ日」(1928)熊谷は描いた後で、これでは人間
ではない鬼だと気づき愕然としたという。
1929二科会の番衆技塾開設に際し参加。後進の指導に当た
った。

1932後々池袋モンパルナスと称される地域の近く(現・豊島
区千早)に80坪に満たない土地を借り、家を建てる。
1938同じ二科会会員の濱田葆光のつよい薦めで墨絵(毛筆
画)を描きこの年に濱田葆光の助けで大阪と奈良と名古屋で
相次いで個展が開かれる。熊谷守一の最初の個展は、意外に
も墨絵(毛筆画)であった。
1947二紀会創立に参加。1951二紀会退会。無所属作家とな
る。

1956年76歳、軽い脳卒中で倒れる。以降、長い時間立ってい
ると眩暈がすると写生旅行を断念し遠出を控えた。晩年20
年間は、30坪もない鬱蒼とした自宅の庭で、自然観察を楽
しむ日々を送る。
(熊谷守一自身が「約30年間 家から出ていない」などの言
葉を残しているが、実際はこの脳卒中以降というのが正し
い。また、庭についても自身が「50坪足らずの庭」と言葉
を残しているが実際はずっと狭かった。)

1967年87歳「これ以上人が来てくれては困る」と文化勲章
の内示を辞退した。また1972の勲三等叙勲も辞退した。
1976 郷里の岐阜県恵那郡付知町に熊谷守一記念館が設立
される。
1977年8月1日、老衰と肺炎のため97歳で没した。墓所は多
磨霊園。

1985に次女で画家の榧(かや)が守一の旧居に「熊谷守一
美術館」を創設し、館長となる(2007に豊島区に寄贈し区
立の美術館となる)。
2004には長男・黄(こう)が『熊谷守一の猫』の画文集
を刊行し守一の絵画、日記、スケッチ帳などを岐阜県に寄
贈。2015に中津川市に「熊谷守一つけち記念館」が設立
される。

写実画から出発し、表現主義的な画風を挟み、やがて洋画
の世界で「熊谷様式」ともいわれる独特な様式−極端なまで
に単純化された形それらを囲む輪郭線、平面的な画面の構
成をもった抽象度の高い具象画スタイルを確立した。
轢死体を目にしたことをきっかけに、人の死や重い題材も
扱った。生活苦の中で5人の子をもうけたが、赤貧から3人
の子を失った。

4歳で死んだ息子・陽(よう)が自宅の布団の上で息絶えた
姿を荒々しい筆遣いで描いたもの(「陽の死んだ日」1928/
大原美術館)結核を患い2年も寝込んでいた長女・萬(まん)
の病床の顔を描いた作品、その萬が21歳の誕生日を迎えて
すぐ亡くなり野辺の送りの帰りを描いた作品「ヤキバノカ
エリ」(1948-55年/岐阜県美術館))、仏壇に当時は高価で
あったタマゴをお供えした様子「仏前」(1948年/豊島区立
熊谷守一美術館 寄託作品(個人蔵))なども絵に残している。
子煩悩で大変に子供をかわいがった。

自然や裸婦、身近な小動物や花など生命のあるものを描い
た画家で洋画だけでなく日本画も好んで描き、書・墨絵も
多数残した。墨の濃淡を楽しみながら自由に描かれた墨絵
、生命あるものを絵でなく「書」で表現したとも評された
書、また、頼まれれば皿に絵付けなどもした。摺師との仕
事を楽しんで制作した木版画も残されている。

熊谷は、昭和46年6月14日7月12日まで連載された日本経
済新聞の私の履歴書において(現在は「へたも絵のうち」と
題され平凡社ライブラリーより文庫化されている)「二科
の研究所の書生さんに「どうしたらいい絵がかけるか」と
聞かれたときなど、私は「自分を生かす自然な絵をかけば
いい」と答えていました。下品な人は下品な絵をかきなさ
い、ばかな人はばかな絵をかきなさい、下手な人は下手な
絵をかきなさい、と、そういっていました。」「結局、絵
などは自分を出して自分を生かすしかないのだと思います。
自分にないものを無理になんとかしようとしても、ロクな
ことにはなりません。
だから、私はよく二科の仲間に、下手な絵も認めよといって
いました。」と言っている。

晩年は自宅からほとんど出ることがなく、夜はアトリエで
数時間絵を描き、昼間はもっぱら自宅の庭で過ごした。熊
谷にとっての庭は小宇宙であり、日々、地に寝転がり空を
みつめ、その中で見える動植物の形態や生態に関心をもっ
た。晩年の作品は、庭にやってきた鳥や昆虫、猫や庭に咲
いていた花など、身近なものがモチーフとなっている。
(現在庭は残っていない。旧居跡地には1985に熊谷守一美
術館が建てられた。)

熊谷様式とされる下絵デッサン(線)が塗り残された作品
で山々や海・風景が描かれたものについては、若い頃のス
ケッチブックを広げて油絵にしていた。同じ下絵で描かれ
た作品も多く、構図の違いや色使いを変えたりと熊谷自身
が楽しみながら描かれたであろう作品が展開される。線と
面で区切られた小さな4号サイズの板には作品を見るもの
に【昆虫の目】を持たせてくれる。面と線だけで構成され
た独特な画風による作品は、現在も高い評価を得ている。

熊谷守一年譜

1880 岐阜県恵那郡付知村に生まれる(現中津川市付知町)

1900 東京美術学校西洋画科に入学(現東京芸術大学)
   同級生に青木繁がいた

1909 第3回文部省美術展覧会に「蝋燭」を出品、褒状を
   受ける

1910 実母の死を機に故郷に帰り、そのまま6年を過ごす

1916 再び上京して第3回二科会展に出品
   二科会会員に推挙される

1928 日々の食事にも事欠くありさまで、次男の陽が肺炎
   に罹ったときも医者にみせることができず死なせて
   しまった4歳で死んだ息子・陽(よう)の死に顔を描
   く「の死んだ日」

1930年代より墨絵を描き始め、晩年書も書くようになる

1932 後々池袋モンパルナスと呼ばれる豊島区長崎町(現千
   早)に移り住み、生涯にわたりここで生活する

1940年代より輪郭と平面による独特なスタイルの油絵になる

1947 二紀会創立に参加
   21歳で死なせてしまった娘を悼みの葬式の帰り道を描
   く「ヤキバノカエリ」

1951 二紀会退会、無所属作家となる

1956 脳卒中で倒れる

1964 日本各地でも数多く個展が開かれるようになる
   パリで個展を開催

1967 文化勲章を辞退する

1972 勲三等叙勲も辞退する

1977 8月1日逝去 享年97歳

代表作
「蝋燭」1909 60.0×50.5cm、岐阜県美術館
「陽の死んだ日」1928 大原美術館蔵
「裸婦」1930 東京藝術大学大学美術館
「裸婦」1940 65.2×53.0cm、徳島県立近代美術館
「ヤキバノカエリ」1947 50.0×60.5cm、岐阜県美術館蔵
「伸餅」1949 愛知県美術館木村定三コレクション
「種蒔」1953 40.0×30.0cm、福島県所蔵
「土饅頭」1954 愛知県美術館木村定三コレクション
「化粧」1956 43.0×35.0cm 京都国立近代美術館
「白猫」1959 豊島区立熊谷守一美術館
「雨滴」1961 愛知県美術館木村定三コレクション
「猫」1963  愛知県美術館木村定三コレクション
「岩殿山」1965 65.5×81.0cm 京都国立近代美術館
「兎」1965 35.3×49.5cm、天童市美術館
「泉」1969 熊谷守一つけち記念館
「芍薬」1973 33.4×24.3cm、和泉市久保惣記念美術館
「アゲ羽蝶」1976 豊島区立熊谷守一美術館
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