版画の歴史(メルマガ連載記事)
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         ルネサンス期の版画(1400年後半〜1500年代)
         バロック期の版画(1600年代)
         ロココ期の版画(1700年代)
         19世紀の版画(1800年初頭)
         19世紀の版画(1800年半ば)
         19世紀の版画(1800年後半)
         20世紀の版画(フランス)
         20世紀の版画(ドイツ)
         20世紀の版画(日本 1900〜1911)
         20世紀の版画(日本 1920〜1945)
         20世紀の版画(日本 1945〜1955)
         20世紀の版画(日本 1950〜1960)
         20世紀の版画(アメリカ 1950〜1963)
         20世紀の版画(ポップアート)
         20世紀の版画マルティプル(マルティプルオブジェ)

 ルネサンス期の版画(1400年後半〜1500年代)
 
 1455年に世界的な革命的な出来事がありました。

 それはグーテンベルグによる活版による印刷技術の発明です。

 ヨハネス・グーデンベルグは、いくつかの小印刷物を刷った後、2巻本の旧・新
 約聖書を世に出しました。

 この発明はその当時の製紙法の流布とも伴い、情報伝達の方法に一大革命を起こ
 しました。  

 ごく初期の印刷本には挿絵はありませんでした。
 印刷物の縁飾りや装飾文字はすべて手描きでした。

 けれども直ぐにその印刷の装飾に版画が利用され始め、1400年代末までの間
 には大量の挿絵入り本が作られるようになりました。
 
 当時の挿絵は木版で作られ、金属製の活版に木版をはめ込む形で一枚の凸版の版
 を作り、それを刷って挿絵入りの印刷物を作りました。

 イタリアでは1470〜80年代にマンティーニャなどの作家がエングレービン
 グの技法により版画を製作しました。

 ただイタリアではそれほど多くの版画が作られたわけではなく、絵の複製として、 
 著名な画家の作品をもとにされたものが多く、流通量もごくわずかしかありません
 でした。

 その印刷技術の発達に伴い、1400年代後半から1500年代前半にかけて、
 ドイツの美樹史的に重要な画家たちの多くが版画を製作しました。

 その中でも最も高名な版画家はアルブレヒト・デューラーと言えるでしょう。

 当時は油絵などの絵画は注文による制作がほとんどで、版画は画家が、自主的に
 製作することも多く、不安定な注文制作に対して、安定した現金収入源という、
 現実的な側面ももっていました。
 
 同時代では北ドイツのルーカス・クラナッハ(父)、グリューネワルトやハンス・
 ホルバイン(子)等が版画作品を制作しました。

 ヒエロニムス・ボシュやピーター・ブリューゲル等、当時の著名な画家の作品は
 1550年〜1570年にかけてピーター・ヴァン・デル・ハイデンによってエン
 グレービングにより複製された。
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 バロック期の版画(1600年代)
 
 1500年代まではエッチングの第一世代でした。

 木版画、エングレーヴングでトップだったドイツに変わって、1600年代に
 なると、その中心は、フランスとイタリア、オランダがエッチングの中心とな
 りました。

 フランスのナンシーを中心にした版画家たちにジャック・ベランジュ、ジャッ
 ク・カロ、アブラアム・ボスがいます。
 
 ベランジュは、マニエリスム美術の流れの中に位置し、軽い細い線や点を加え
 て、繊細なタッチで宮廷の人々を描きました。

 ジャック・カロは生涯で1400点ものエッチングを制作しました。

 そしてその主題は、宮廷の祝祭劇やパレードの記録、悲惨な戦争の冷徹な記録
 から旅芸人、乞食とそのレパートリーも非常に幅広く、このこれらテーマで後
 世も描かれる版画の主題の先駆けとなりました。

 カロの線は太い線と細い線が繰り返され、ビュランの「縞彫り」を思わせる。

 彼はエッチングによってエングレービングのような効果を得ようとしたのであ
 る。

 また同時に、エッチング特有な軽やかな線の動き、腐食時間の調節によって作
 り出される微妙な明暗の階層や,線の強弱も彼によって確立されたといえます。
 
 そういった技術上の工夫にはアブラアム・ボスが重要な役割を果たした。

 アブラハム・ボスはカロの友人でもあり、版画家だったボスは1645年に
 世界で最初の銅版画の技法書を出版している。

 この技術書は19世紀になるまで、基本的にほとんど変わること無く面綿と
 受け継がれていくことになります。

 17世紀のオランダで最大の画家といえばルーベンスとレンブラントです。

 ルーベンスは自ら気に入った版画家を雇い、自分の作品を版画化させていき
 ました。

 一方レンブラントは自ら版画を制作し、300点を越すエッチングを残しま
 した。

 彼は「夜警」を初めとして、多くの傑作の油彩画を制作した。

 その一方で300点以上にのぼるエッチングも残した。

 腐食方法の工夫に加え、ドライポイントやビュランの線のエッチング
 に加味する事による繊細なニュアンスの創造、インクのふき取り加減
 のもたらす効果の探求など、 彼がエッチングの分野で成し遂げた数
 々業績は、18世紀にいたるまで、計り知れない多大な影響を与えた。

 宗教画から風景画、自画像、乞食や農夫までそのモチーフは幅広く、
 そこには徹底した人間観察と、宗教を越えた深い人間愛が湛えられ
 ていた。

 17世紀を「真のエッチングの黄金時代」たらしめた功績は、その
 多くをレンブラントに帰するといえる。

 レンブラントは紙にも大きな関心をよせ、通常の漉き紙だけでなく、
 オートミール紙などさまざまな素材の刷りを試みている。

 紙の性質によりインクの刷り取り具合が微妙に異なり、仕上がりが
 違ってくるからだ。

 そして和紙に版画を刷った西欧で最初の人となった。

 その和紙は日本の出島から、さまざまな輸出物とともに、アムステ
 ルダムの港にもたらされたものだった。
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 ロココ期の版画(1700年代)

 18世紀になると「ロココ様式」と呼ばれる新しい美術の流行が起こってた。

 絵画の分野ではワトー、ブーシェ、フラゴナールといった優れた画家たちの
 デッサンや絵画が盛んに版画化されていき、その際、堅苦しいビュランの
 線よりは、軽やかなデッサンの線の表現に適した、エッチングが好まれ、多用
 されるようになった。

 また、これらの人気画家が描いたチョーク画や淡彩画、パステル画などを
 版画でそっくりに再現しようという熱意から、多くの人々が多色刷り銅板画の
 開発にまい進した。

 18世紀はまさに、銅版画技法の多様化の時代です。

 18世紀末の革命に向かう時代にあって、美術を収集する新しい階層が
 台頭してきました。
 
 この新しい階層は、王侯貴族が好んだ流行作家の油彩画は手が出ない
 ものの、デッサンなら十分購入できたし、それが無理なら版画によって手に
 入れようとしたのだった。

 そしてこの時代にセピア色のインクを薄く水に溶いて描かれる淡彩画を
 狙ったアクアチント技法が登場する。

 最初にアクアチントを制作したのはジャン.バティスト・プランスとされる。
 
 ただ同時期にジャン・シャルル・フランソワやジャン・クロード・リシャール
 などもアクアチントと同様な技法で版画を制作しているため、どちらが
 最初にアクアチントを制作したかは定かでは無い。

 技法の工夫は18世紀後半に向けて、ますます多様化、ついには
 銅版画多色刷りという手の込んだものに発展する。

 銅版画の直刻法のバリエーションであるメゾチント(マニエルノワール)は
 17世紀中ごろに始まり、18世紀になるとさらにその方法が発展し、
 多色刷りを制作する人が現れる。

 最初に多色刷りメゾチントを最初にこれを考案したのはジャン・クリストフ・
 ル・ブロンである。

 ル・ブロンはドイツで生まれ、ロンドン、パリと移動して活動した人物で、
 初めニュートンの三原色の理論に基づいて三版多色刷りを試み、
 次いでそれに黒の版を追加して、四版多色刷りのメゾチントを考案した。

 ただ銅版で複数の版を作り多色刷りの版画を作る事はあまりにも手間が
 かかるため、19世紀に入ると廃れていってしまった。

 その後19世紀には多色刷りはリトグラフが多色刷りの主役となった。 
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 19世紀の版画(1800年初頭)
 
 19世紀になると版画の全体像を見る上で、キーワードと
 なるのが「大量印刷」と「限定部数」である。

 大量に作る事と出版部数を抑えることは相反する事象です
 が、19世紀の版画はその両極で揺れ動いたのです。

 そして、その動きは版画の社会的役割の変化を意味してい
 ます。

 書物を作る現場で、手書き作業から印刷術へと促されたの
 は、「より早く、より大量に」印刷する事が求められたか
 らです。

 しかし、それは現代と比較するほどの規模ではなく、書物
 も印刷術はまだ限られた人々のためだけのものでした。

 まだ19世紀初めのように識字率の低い段階では、今日的
 な大量印刷が必要なわけでは無く、印刷物は稀少性の高い
 美術工芸品の域にとどまっていました。

 書物も版画も需要が無ければ、供給も生まれません。

 まずは教会が、その次に国家が教育制度に力を注ぎ、それ
 に伴って識字率が高まると、一気に印刷物の量産化が求め
 られる様になりました。

 19世紀の版画を語る上で、リトグラフ(石版)技術の発
 明は画期的な出来事です。

 今日でこそリトグラフ技術はもっぱら美術作品のための技法
 とみられているが、そもそもは文字の印刷代を安く上げるた
 めに1798年にミュンヘンのアロイス.ゼネフェルダー
 が発明したものなのです。

 しかし、リトグラフ技術は文字の印刷より画像の印刷に優れ
 版画の分野で革命をもたらす事になります。

 それまで画像印刷の分野では木版画、銅版画でしたが、どち
 らも版そのものを作る作業工程のために自然な画像をやわら
 かく表現する事が非常にむずかしい技法でした。

 それに対してリトグラフは版の表面に凸凹を作る必要がなく、
 デッサンをするのと同様に版の上に画像を描くだけで版が制
 作でき、デッサンの心得さえあれば特殊技術がなくても誰で
 もやわらかな絵画表現を版画にできるようになりました。

 ヨーロッパの美術の中心であったパリに本格的に石版印刷技術
 が導入されるのは1810年代の半ばになってからです。

 1820年代になると、フランスは石版画の黄金時代を迎え、
 ロマン派のほとんどの画家が石版画に注目しました。

 それは彫り師の助けを借りずに作家自身で自分の作品の複製を
 作れるからです。

 この時期に筆頭に上げられる石版画を制作した作家にエオドー
 ル・ジェリコーがいます。

 鮮やかな色彩と躍動感にあふれる絵画でロマン派の幕開けを飾
 ったジェリコーは石版画の白黒の世界でも数多くの傑作を残し
 ました。

 また老齢のフランシスコ・デ・ゴヤは亡命中のボルドーで再度
 石版画に挑んでいる。

 ゴヤは渡仏前の1919年に石版画を制作しているが、反動的
 な行動でスペインを離れ、ボルドーにてその石版画の才能は開
 花させ、「ボルドーの闘牛」シリーズを制作する。

 ジェリコーは歴史上の出来事や見聞きした題材を石版画に
 したが、対照的にウジェーヌ・ドラクロワはシェイクスピアや
 ウォールター・スコット、バイロンらの文学作品から着想を得
 て連作版画集や石版画を制作した。

 ドラクロワは炎や湯気の立ち込める怪奇な場面を描くためにこ
 れまでにはない大胆な手法を取り入れた。

 石版画全体にほぼ均等にクレヨンで塗り、スクレイパーで削り
 取る事により白い線を無数に描きこんだ。

 そして1830年代になると美術品だけで無く、さまざまな印
 刷物、地図、楽譜、本やパンフレットの挿絵などに広く利用さ
 れるようになりました。

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 19世紀の版画(1800年半ば)

 ロマン主義寺代にもてはやされた石版画も1840年代になると
 画家の創作活動にあまり利用されなくなっていきます。

 石版画で印刷された出版物が町中に出まわる様になると、画家や
 出版会社は、美術作品を安価で手軽な印刷物と同じ方法で印刷す
 るべきではないと考える様になったからです。

 また、石版印刷所にしても、画家が求める微妙なニュアンスを出
 すために何度も試刷りにつきあうよりも、多くの人々が求める安
 価な印刷物を大量に印刷したほうが、利益が上がったから、自ず
 と、美術しての石版画から遠ざかる結果となりました。

 1840年代と50年代の風俗・風刺の分野で、挿絵として重要
 な役割を果たしたが、画家の芸術作品という分野では版画は低調
 な時代といえます。

 その中で世間から隔絶し、独自な幻想的な世界を版画で表現した
 作家がフランスのシャルル・メリヨンとロドルフ・ブレスダンで
 した。

 メリヨンはパリのセーヌ川の岸辺の景観をしばしばエッチングに
 しました。

 彼はパリの実景を元に、写生的にエッチングを製作しましたが、
 そのエッチングの線の一本一本に画家の繊細な感情が彫りこまれ
 ており、重苦しいパリ、憂鬱なパリの側面を描き出しました。

 ブレスダンは銅版画と石版画を製作し、画面いっぱいに細かい線
 を埋め尽くし、絵柄を完成させました。

 彼の執拗な線描は繁茂する熱帯雨林や摩訶不思議な動物に変身し
 て、この世のものとは思えないような怪奇な情景を生み出しまし
 た。
 
 そして1863年にブレスダンと知り合ったオディロン・ルドン
 は彼を偉大なエッチング作家と称え、版画の師と仰ぎました。

 そしてルドンは、銅版画では得られない石版の「黒の効果」を求
 めてブレスダンと違う版画表現を模索していきました。

 衰退傾向にあった版画は19世紀半ば、フランスで再び画家たちの
 注目を浴びることとなった。
 
 それはそれまで主流だった石版画ではなく、銅版画で、レンブラン
 トの熱狂な崇拝者であったシャルル・ジャックを中心とするバルビ
 ゾン派の画家たちによってでした。

 カミーユ・コロー、フランソワ・ミレー、シャルル・ドービニー、
 テオドール・ルソー等のバルビゾン派の画家たちは、油絵で好んで
 描いた風景をエッチングで表現しようと試みました。

 時間の推移とともに常に表情を変える自然を白と黒のでとらえよう
 としたのです。

 光や空気の表現に興味のあった彼らにとって、色彩豊かな油彩画と
 はまた逆にエッチングの線や黒と白だけの世界がかえって新鮮な
 表現手段と写ったのかもしれません。

 また詩人のボードレールなどもエッチングの芸術性を推奨し、エッ
 チングの復興の気運が高まりました。

 それを決定したのがパリに創設された腐食銅版画家協会の活動です。

 同協会は1862年に出版人アルフレッド・カダールと銅版の刷り
 師オーギャスト・ドラートル、銅版画家のフェリックス・ブラック
 モンが中心となって設立されました。

 協会の活動の柱はエッチング作品の出版事業でした。

 毎月5点程度の銅版画を組にして有料配布しました。

 この事業は5年間継続され、合計で300点以上の銅版画が腐食版画
 家協会から出版されました。

 参加した画家の中にはドラクロワやエドワード・マネ、コロー、メリ
 ヨン、ヨハン・ヨンキントなど当時の一流の画家たちがいました。

 しかしこの協会が今日でいうオリジナル版画の発展を標榜したわけで
 はなく、画家が寄せた銅版画の中にはサロンに出品した油彩画を銅版
 画に写しただけの作品も多く含まれていました。

 それぞれの画家の画風を銅版画で普及しようとする意図もあり、複製
 を作り広めるといった旧来からの版画の役割も求められていました。

 この時代に銅版画が流行した理由に協会の中心人物の一人刷り師の
 ドラールの活躍があります。

 それまでの刷り師の役割は、版画に刻された図柄となる凹部の線を
 くっきりと刷ることにあり、刷り師の解釈が入る余地はありませんで
 した。

 ところがドラールは刷りの課程で刷り師のアイディアが作品に反映す
 る操作を導入しました。

 ドラールはレンブラントの銅版画のように、インクを完全には拭き取
 らずに薄いインクの層を残すしてハーフトーンを表現したり、エッチ
 ングの溝に詰まった微量のインクを柔らかい布で版の上に引き出して
 ぼかしのきいた線などを刷り上げました。

 刷り師のインクの乗せ方や拭き取り作業が機械的でなくなったことに
 より、版画はその役割を単なる複製の印刷物から、一枚一枚が必ずし
 も同一性を求める必要がなくなり、そのことにより版画はそれぞれが
 独立した美術へと変質していきました。

 当時の社会的役割から見ると、既に写真による印刷が実用化しつつあ
 り、版画は既に時代遅れの複製手段となっていました。

 そして版画は複製手段という制約から解き放たれ、自由な表現を求め
 られる時代に入っていきました。

 19世紀末には、石版による色鮮やかなポスター芸術が開花します。

 そして新たなるコレクター層が現れました。

 多色刷り石版ポスターの分野での功労者はまずはジュール・シェレ
 と言えます。

 若く美しい娘を中央に大きく配した大胆なデザインと、赤・青・黄
 色の大きく色鮮やかな色面が多くの目を引きつけました。

 商業主義と美術が結びついた結果、シェレに続く画家が次々と現れ
 ました。

 その中で最も重要な画家はトゥールーズ・ロートレックとアルフォ
 ンス・ミュシャです。

 ロートレックの第一作ポスター「ムーラン・ルージュ、ラ・グリュ」
 は大胆な構図と太い輪郭線で縁取られた大きな色面でパリの人たち
 を驚かせました。

 しかしロートレックが制作した版画作品350点のうち、ポスター
 はわずか30点程度に過ぎません。

 ロートレックは一般的に知られるポスターのみならず素晴らしいリト
 グラフ作品を多く制作しました。

 その代表的作品は版画集「elles(彼女たち)」と「ジョッキー」です

 もう一人のアルフォンスミュシャは、装飾美術家として、リトグラフ
 技法で色鮮やかなポスターや装飾パネル等を制作しました。

 ミュシャはアールヌーボー様式の代表作家として、演劇のポスターや
 企業広告から装飾デザインまで幅広く活動しました。
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 19世紀の版画(1800年後半)

 版画が複製の手段としての従的な側面から、19世紀末になると
 数々の、版画表現の作家が制作を始めました。

 そのなかでもポール・ゴーギャン、オデイロン・ルドン、エドワ
 ルド・ムンクは油絵の 作家でもありましたが、版画にも積極的
 に新しい表現方法として取り組みました。

 ゴーギャンは証券会社に勤めながらの日曜画家から絵描きになり、
 サラリーマンをやめ、南海の小島タヒチに制作の場所を移し、そ
 こで生涯を終える。

 そして生涯を通じて、およそ70点の版画を制作した。

 ゴーギャンは主として小口木版で、タヒチの土着的、呪術的なイ
 メージを作品としました。

 1894年にはゴーギャンの代表作「ノア・ノア」(10枚連作)を
 制作しました。

 「ノア・ノア」は後にゴーギャンの死後、その原板が四男のポー
 ラの手に渡り、 1921年にコペンハーゲンで限定100部で刊行さ
 れ、通称ポーラ版と呼ばれています。

 ルドンが彼独自の絵画世界を世に問うたのは、1879年、石版画集
 『夢のなかで』 を発表したときでした。

 このとき彼はすでに39歳、そして発表したものも油彩画ではなく、
 版画という白黒の世界でした。ルドンは実は、失意の日々を送っ
 ていた青年時代にいくつかの重要な出会いを経験しています。

 その最たるものは、放浪の版画家 ロドルフ・ブレスダン に師事
 したことです。

 ロマン主義の申し子であったブレスダンを通じて、若いルドンは
 「黒」という色の持つ無限の可能性に目を開いたのです。

 ルドンは自身の木炭や版画による絵画を「私の黒」と呼び、この
 黒の世界で、奔放な空想と独自の造形のかたちを掘りさげていき
 ました。

 1880年代の中頃から、彼の「黒」は前衛的な若い芸術家たちの目
 にとまるようになります。

 アカデミスムにはへきえきし、かといって写実主義や印象主義絵画
 の即物性にも飽いていたこうした画家たちは、ギュスターヴ・モロ
 ーと並んで、ルドンを彼らの先駆者として認めるようになりました。

 ムンクは1894年31才から銅版画、石版画の制作を始め、翌年パリに
 赴き、オーギュスト・クロの版画工房にて版画技術を修得し、次々
 と版画の名品を発表し始めます。
 
 ムンクはその強烈な油絵のイメージとは違い、少ない色数で、黒
 を基調とした静寂の世界を表現した。

 ムンク版画の名品「マドンナ」は1895年に制作されました。

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 20世紀の版画(フランス)

 400年にわたり、画像情報の伝達という役割を果たしてきた版画
 は19世紀という100年間の時間の流れの中で、少しずつ後退を
 余儀なくされていった。

 世紀末を迎える頃にはほとんどその画像情報の伝達という役割は
 終わりを告げ、ほとんど同時期に、画家が原板を作り、刷り上がっ
 た作品に署名と番号を入れることにより、一つの美術作品という存
 在に変貌を遂げた。

 それは版画の表現力が 広く芸術家や収集家に認知されたことを
 意味する。

 20世紀の版画の幕開けを告げるにふさわしい記念碑的作品は、
 1904年作のパブロピカソの「貧しき食事」であろう。

 「貧しき食事」

 この作品はパブロピカソが試みた第2作目の版画作品で、1作目
 は1899年にバルセロナで制作された銅版画「左利き」である。

 「左利き」
  
 「左利き」の題名には、銅版画が描いた絵とは左右反転すること
 をピカソ自身が知らなかったため、右手に槍を持ったピカドール
 を描いたにもかかわらず、刷り上がりを見て機転を利かして「左
 利き」と版画に記載したとのエピソードがある。

 ブロックのピカソ全版画目録(カタログレゾネ)には「左利き」は
 掲載されていないため、「貧しき食事」がNO1となっている。

 「貧しき食事」は当時ピカソは銅版画の制作するにあたって新品
 の銅板が高価なため、既に使われた銅板の表面を削ってこの作
 品を制作した。

 そしてその古い銅板の不完全な削り残しが、作品の背景としての
 深みを出しているとも言える。

 「貧しき食事」は当初出版の予定のないまま作られた銅版画だが、
 1913年に画商ボラールによってその他の1905年の制作の銅
 版画と共に版潰れを起こさないようにメッキをして和紙に27部(
 29部の説もあり)とVan Gelder紙に250部づつ刷られ、15枚の
 セットとして「サルタンバンク」(旅回りのサーカス団)という表題で
 出版された。

 1904年〜1907年に刷られたメッキ前の作品は30部ほどしか作
 られておらず、非常に貴重でほとんど市場に現れることはありません。

 1992年にベルンのコンフェルド社オークションに登場した際は50
 万ドル(6000万円)の落札でした。

 通常のメッキ後の作品のオークションでの落札相場が10万ドル(
 1200万円)からするとメッキ前の作品は5倍の価格がつくというこ
 とになります。

 (1992年〜2001年まで毎年メッキ後の「貧しき食事」はオー
 クションに出品されておりますが、毎回10万ドル前後にて落札され
 ております。)

 20世紀はあらゆる画家が版画にチャレンジした時代です。

 20世紀美術はフォービズム(野獣派)、キュービズム(立体派)
 の出現によって幕を開けました。

 フォービズムはアンリ・マチス、アンドレ・ドラン、ブラマンクが
 中心となり、印象派以降の色彩の問題に取り組みました。

 感覚を重視し、ゴーギャンの造形的構成と装飾性、ゴッホの表現主
 義的な影響を受け、色彩はデッサンと構図に従属するというそれま
 での通念を捨て去り、自然を再現する役割から色彩を解放し、主観
 的な感覚を表現するため、自由に色彩を使うことを求めた。

 キュービズムでは形態の重要性を唱えたポールセザンヌに触発され、
 ジョルジョ・ブラック、パブロ・ピカソが中心となり、色彩を押さ
 え、描く対象を幾何学的に単純化した。

 フォービズム、キュービズム共にその全盛期は短く、フォービズム
 は主に1905年〜1909年のわずか4年間でその隆盛を終え、
 ピカソらによるキュービズムは1909年〜1915年の6年間で
 終わりを迎えた。

 ※フォーブの作品が世に登場したのは1903年のアンデパンダン
 展からで、その展覧会での批判より「フォーブ(野獣)派」の名前
 が付いた。

 フォービズムの運動の中で版画の名品は登場しませんでしたが、
 フォーブから出発したマチスは素晴らしい版画作品多数残しました。

 1909年〜1915年のキュービズム運動の中で、ピカソは16
 点の銅版画を制作し、ブラックは11点の銅版画を制作した。

 キュービズム絵画はその後もロベール・ドローネやルイ・マルクシ
 ス、ジャックビヨンなどに引き続き制作された。

 ロベールドローネはエッフェル塔のリトグラフ連作で有名である。
   「Van Gelder紙」
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 20世紀の版画(ドイツ)

 フランスのフォービズムの動きに同調するかのように、1905年にドイツ
 で、前衛美術家グループ「ブリュッケ」が結成された。

 中心メンバーはエルンスト・ルードビッヒ・キルヒナー、エーリヒ・ヘッケ
 ル、 カール・シュミット・ロットルフで、1906年にはマックス・ペヒ
 シュタインが加わり、1910年にはオットー・ミュラー、エミーユ・ノル
 デが参加した。

 彼らが版画を単なる美術の媒体と考えていなかったことはその制作点数でも
 見ることが出来る。

 2000点以上の版画を制作したキルヒナーを筆頭に、ヘッケルは1000
 点以上、ロットルフは650点以上、ペヒシュタインは850点の版画を制
 作した。

 更に彼らは木版、銅版、石版それぞれの版種の技法に独創的な解釈を加えて、
 新しい表現方法を開拓した。

 ブリュッケは木版という最も伝統があり、かつ19世紀以来、美術の表現方
 法としては余り活用されなくなった版種に、新しい生命を吹き込んだことで
 あろう。

 もちろんこれは先人であるムンクの影響は少なくなかった。

 当時フランスでセンセーショナルに受け止められたフォービズムやキュビズ
 ムで、版画がその表現になることは無かった。

 ところがドイツでは版画を通した表現がブリュッケ以降も重要な役割を果た
 し続けることになる。

 フランスからもたらされた美術の新しい波は、新分離派の中心地ベルリンや、
 ブリュッケの活動の中心のドレスデンではなく、まずミュンヘンに上陸し若
 い芸術家を刺激した。

 新ミュンヘン美術家協会の1910年の展覧会には、ピカソとブラックのキ
 ュビズムの作品がいち早く展示されるなど、フランス前衛とドイツの画家を
 結びつける重要な都市がミュンヘンであった。

 この協会から離れたヴァリシー・カンディンスキーとフランツ・マルクを中
 心に「ブラウエ・ライター(青騎士)」が結成された。

 青騎士にはアウグスト・マッケやパウル・クレーも参加し、また同グループ
 の第2回展には素描と版画に限られていた。

 ブリュッケの作家に加え、ピカソ、ハンス・アルプ、ブラック、ドローネ、
 ドラン、マレーヴィッチら国内外の作品が展示された。

 同展にピカソはキュビスムの挿画銅版画集「サン マトレル」をカンディン
 スキーは「響き」を出品した。

 新分離派・・・1910年、E・ノルデの作品がベルリン分離派展から拒絶
 されたのを機に、自由出品制の「新分離派展」を結成し、ドイツ表現主義の
 端緒となった。
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 20世紀の版画(日本 1900〜1911)

 明治初期には日本では絵画の版画を含め、商業印刷物や報道の印刷物をも
 含めて「刷り物」と呼ばれた。

 明治30年代(1897〜)に入って日本の画家達は実用的に流通してい
 た「刷り物」に新しい表現方法としての可能性に気付き始めました。

 1900年の白馬会第5回展で、ミュシャやその他の外国人作家のポスタ
 ーが展示された。

 翌年の第6回展では、パリ万博から帰国した黒田清輝が持参したミュシャ
 やスタンランの石版画ポスター48点が出品され、日本の画家達に大きな
 影響をもたらした。

 そして第6回展には藤島武二の木版画なども展示された。

 1902年第7回展にはボナールなどのポスターと、藤島武二の石版刷り
 挿し絵や岡田三郎助の着色銅版画が出品された。

 1904年になると「明星」に添付された山形鼎の木版画について石井泊
 亭は「画家的木版」というの言葉で、従来の「刷り物」の概念から「非実
 用的なる美術表現」という位置付けをした。

 1906年に美術文芸誌「平旦」にて山形鼎の「西洋木版に就いて」とい
 う連載の中で「版画」という言葉を使い「創作版画」の定義づけを行った。

 やがて「版画」は「文芸百科全集」(1909)で石井泊亭によって複製
 的版画と創作的版画と区別しながら解説された。

 1910年武者小路らにより「白樺」が創設され、版画を含めて同時代の
 西洋美術を図版と論考で積極的に紹介し始めた。

 1911年に「白樺」が主催した「泰西版画展覧会」にはマックス・クリ
 ンガー、エドワルド・ムンクなど39作家183点もの作品を展示し好評
 をもって迎えられた。
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 20世紀の版画(日本 1920〜1945)

 1920年代になると都市化や産業の発達に伴う大衆文明や物質文化
 の興隆、ロシア革命に刺激された社会主義思想の青年層への浸透、
 関東大震災による破壊、復興といった社会を背景に表現主義、キュビ
 ズム、未来派、構成主義、ダダイズムなどの芸術思潮に影響された作
 品が多く作られるようになった。

 1931年には日本版画協会が結成され、それまで以上に版画の地位
 向上と普及がはかられた。

 日本版画協会は1934にはパリで「近代日本版画とその起源」とい
 う展覧会を開催して、海外進出も果たした。

 1930年代になると、別に日本の伝統や古典文学を拠り所とする文
 芸・思想運動が興ってきた。

 そしてその民芸運動の創始者たちの目に留まったのが棟方志功である。

 民芸運動や左翼運動の影響を受けた作品以外では、大震災後の復興事
 業によって変わったモダン都市東京の風景や風俗を描きとめる作業の
 なかから、モダン感覚溢れる版画が多く制作された。

 その代表作品は平塚運一、川上澄夫、恩地孝四郎ら8人で制作した
 「新東京百景」である。

 モダニズムのその他の作品には織田一磨の「画集銀座」や幻想的な谷
 中安規の「忘却の譜」などが作られた。

 1935年には東京美術学校に臨時版画教室が開設され、平塚運一等
 がその指導にあたった。

 そしてこの教室で香月泰男や浜田知明などが学んだ。

 1939年には恩地孝四郎、関野準一郎、山口源らにより版画研究会
 「一木会」が始動する。

 1943年には大政翼賛会の元に日本版画奉公会が、恩地孝四郎を理
 事長として発足する。
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 20世紀の版画(日本 1945〜1955)

  日本版画の国際化

 1944年に最初の木版画集を発行した「一木会」が敗戦の翌年の5
 月に第2集を発行する。

 1950年までに全6集を刊行した「一木会」に恩地を中心として、
 畦地梅太郎や斎藤清、関野準一郎、山口源、駒井哲郎らが集まった。

 戦後のモダニズムの延長として抽象版画に専念した恩地の作品は、斎
 藤や山口に多くの示唆を与えて、彼らにも木版抽象を制作させた。
 
 一木会に参加すると共に、それ以前から西田武雄が1930年代初め
 に設立した日本エッチング研究所に学んでいた関野や駒井たちは、戦
 後も引き続き銅版画制作に情熱を注ぎ、次世代の版画表現への架け橋
 を築いた。

 やがて関野は1951年自宅に銅版画研究所を開設、2年後には駒井、
 浜田知明、浜口陽三らと日本銅版画協会を設立し、銅版画の発展に尽
 くした。

 戦後新しい表現を見いだしてきた日本の版画は、1950年代初めに
 なると、国際舞台へと進出して高い評価を得るようになっていった。

 1951年に第一回を開催したサンパウロビエンナーレでは駒井哲郎
 と斎藤清が日本人賞を受賞する。

   1951年サンパウロビエンナーレ受賞作品
   駒井哲郎「束の間の幻影」1951

   斎藤清「凝視(花)」1950

 この受賞は日本の美術業界全体に反響を呼び、その後の海外出品を勢
 いづける。
 
 このあと順に1952年に第2回ルガノ国際ビエンナーレで棟方志功
 と駒井哲郎が優秀賞を受賞。

 1955年第3回サンパウロビエンナーレで棟方志功が最優秀賞を受
 賞、1956年第4回ルガノ国際ビエンナーレで浜田知明が8人賞を
 受賞し、日本の版画が世界の檜舞台で脚光を浴びていった。
 
   1956年第4回ルガノ国際ビエンナーレ8人賞受賞作品
   浜田知明「初年兵哀歌(歩哨)」1954

 そして同じ年最も歴史ある国際美術展ヴェネツィアビエンナーレで棟
 方志功がついに版画大賞の栄冠に輝き、版画熱が一気に高潮した。

   1956年国際美術展ヴェネチアビエンナーレ版画大賞受賞作品
   棟方志功「湧然とする女者達々」1954
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 20世紀の版画(日本 1950〜1960)

  日本版画の国際化2

 日本の近代版画を語るのに欠かせない作家と言えば長谷川潔、浜口
 陽三の2人である。 

 1918年にフランスに渡った長谷川潔は、海外から春陽会や日本
 版画協会の会員として、ビュランやマニエール・ノワールによる象
 徴主義に根ざした銅版画を日本に送ってよこした。

 そして浜口陽三は1953年にフランスに渡り、50年代半ば以降
 カラーメゾチントの銅版画を制作し、日本の展覧会に出品を繰り返
 した。

 複製技術として使われていた古典的西洋銅版画のメゾチント技法を、
 現代に蘇らせた2人の銅版画は、戦後草創期の日本の版画表現に少
 なからぬ影響を与えた。

 1951年にデモクラート美術家協会を結成し、美術制度からの解
 放と表現の自由を基本姿勢として前衛表現を制作し続けた瑛九もま
 た、50年代初めより銅版画の制作を始め、協会に集まった若手の
 作家達に多大な影響を与えた。

 この協会の会員だった池田満寿夫、泉茂などの作家が、瑛九のもと
 で銅版画を制作した。

 各種国際美術展で脚光を浴び、銅版画を中心的動力として大きく動
 き始めた。

 その最大の原動力となったのは1957年に始まった東京国際版画
 ビエンナーレの開催である。

 国立近代美術館と読売新聞社の主催で第一回展が開催されて以来、
 途中主催者が一部変わりながら、1979年の11回展まで開催さ
 れて消滅、日本の現代版画に決定的な影響力をもちつつ同時に日本
 の現代版画の骨組みを作り出した。

 このビエンナーレの第2回、第3回、第4回展で立て続けに受賞し
 て一躍有名になったのがデモクラート美術協会出身の池田満寿夫で
 ある。

 池田はドライポイントで引っ掻いた激しい線描を特徴とする色彩銅
 版画を制作し、高度経済成長期の世相をエロスとユーモアで軽妙に
 諷刺し、 久保貞次郎やヴィル・グローマン、ウィリアム・リーバ
 ーマンなどの内外の審査員に注目された。

 またこの時期、加納光於が池田と競合しつつ対照的な個性を発揮し
 て、1959年のリュブリアナ国際版画ビエンナーレの受賞を皮切
 りに日本国際美術展、東京国際ビエンナーレなどで受賞、美術界に
 彗星のごとく登場した。

 加納は繊細に腐食した亜鉛や銅などの金属板を使ったインタリオに
 よってアンフォルメルを示唆させながらも、静物的で心理学的な表
 現を行い滝口修造に高く評価された。

 ウィリアム・リーバーマン・・・ニューヨーク近代美術館学芸員
 ヴィル・グローマン・・ドイツ現代批評家、クレー等表現派の研究家
 インタリオ・・・一般的には凹版技法全般を指すですが、加納光於の
        インタリオは画家自身が名付けたもので特別な技法と
        してインタリオと呼んでいる。
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 20世紀の版画(アメリカ 1950〜1963)

 新しい版画工房

 アメリカでは1950年代末第二次世界大戦後の好景気を背景に
 現代作家の版画作品を好んで収集するコレクターが増えて始めた。

 このような需要に応える形で登場したのが、2人の女性が設立し
 た版画工房U.L.A.E.(unversal Limited Art Editions)と、
 タマリンド石版工房である。

 これらの工房は第二次世界大戦の前後を通じて衰退気味だった
 石版画を画家達に浸透させ「リトグラフ・ルネッサンス」とも
 言うべき動きをアメリカにもたらした。

 またタマリンド石版工房は、単に版画工房としての機能を持つ
 ばかりでなく、刷り師の養成機関との特質をも持っていたため、
 1960年以降に設立された版画工房の方向性に大きな影響を
 与えた。

 ネオダダの騎手ジャスパージョーンズは1962年にU.L.A.E.
 で最初のリトグラフ「標的」を制作し、1963年にラウシェ
 ンバーグがU.L.A.E.で制作したリトグラフ「アクシデント」は
 第5回リュブリア国際ビエンナーレで大賞に輝いた。

 「アクシデント」は自動車事故や船の転覆などによる遭難事故
 などを連想させるイメージが写真転写の方法で作品画面に取り
 込まれ、画面を斜めに貫く亀裂はプレス機を通す際に割れた
 偶発的「アクシデント」をも作品として取り入れ、ラウシェン
 バーグの版画代表作となった。

 当時U.L.A.E.ではジム・ダイン、マーザウェル、ヘレン・フラ
 ンケンサーラら数多くの作家の版画が制作された。

   ジャスパー・ジョーンズ「標的」1962

   ラウシェンバーグ「アクシデント」1963
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 20世紀の版画(ポップアート)

 第二次世界大戦後いち早く安定を取り戻して消費生活を急速に拡大
 したアメリカでは、大量生産により物資が溢れ、新聞、雑誌やテレ
 ビを中心とするマス・メディアが、一つの大衆文化を形成していた。

 漫画や雑誌、商品のラベル、看板、映画、テレビなどで頻繁に目に
 する大衆文化のイメージを意図的に作品へと取り込んだのがポップ
 アートである。

 1956年にイギリスのアーティスト、リチャード・ハミルトンのコラ
 ージュに「POP」の文字が記され、1960年代初頭にイギリスの美術
 批評家ローレンス・アロウェイが、今日我々が親しんでいる方法で
 「ポップアート」という言葉を使い始めた。

 イギリスで生まれ、1960年代にアメリカで開花したポップアー
 トはシルクスクリーンの技法を、現代版画の重要な表現手段として
 の存在へ高める功績を残した。
 
 シルクスクリーン技法自体は商業的に20世紀初頭から、使われて
 いた技法で、1941年にはベンシャーンが、1950年代には、
 マルセル・デュシャン、ポロックなどが作品制作に利用したが、い
 ずれもごく一部の作品を制作したのみで、シルクスクリーンがアー
 ト・シーンに本格的に登場するのは1960年以降である。

 1950年代には商業デザイナーとして既に人気を博していたアン
 ディ・ウォーホールは1960年代初めに「ファクトリー」という
 制作チームを作り、1962年には肖像写真を元にモンローやプレ
 スリーなどという大衆的な「アイドル」の姿をキャンバスにシルク
 スクリーンで刷った。

 同じ写真をベースにイメージを増幅させていく手法で、シルクスク
 リーンによる版画に着手したのもこの年である。

   リチャード・ハミルトン コラージュ 1956
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 マルティプル(マルティプルオブジェ)

 マルティプルは彫刻とも版画とも区別しがたい、同一の物が複数存在
 する作品を指す。

 有名なマルティプル作品としてはマルセルデュシャンが1934年に
 制作した"Boite-en-valise"という作品がある。
 
  マルセル・デュシャン 「Boite-en-valise」 1934年

 この作品は旅行鞄の中にそれまでデュシャンが制作してきた作品の縮
 小複製や、ドキュメントが詰まったマルティプルで当初28部を制作
 しパリを離れこの28部を携えて渡米した。

 その後「Boite-en-valise」は1968年までに総数280部制作さ
 れた。

 ダダイスト、シュールレアリストの中では他にマンレイ等が独創的な
 マルティプルを制作した。

 マンレイのマルティプルは以前に制作した1点もののオブジェをマル
 チプルとした再度制作販売した物が多い。

  マンレイ 「贈り物」 1921年(原型)
 1963年、1974年(5000部)

  マンレイ 「破壊されざるオブジェ」 1923年(原型)
 1965年(100部)

 マルティプルの作品を制作する作家はコンセプチュアルアートの作家
 の多くがマルティプルオブジェを制作し、ヨゼフボイスがその代表格
 である。

  ヨゼフボイス 「フェルトスーツ」 1970年
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